2009年01月09日
いそがば廻れ矢橋の帰帆
明けましておめでとうございます。青花です。今年も宜しくお願いいたします。
みなさんお正月はいかが過ごされましたか、滋賀湖南地方の天気はまずまずでした。
昨年開業したイオンモールは大賑わいで、初詣に行かれる方とイオンモールへの
買い物客で近江大橋は車の列でした。
元旦から2日にかけて比叡山は雪が降ったようで、山の中腹まで白くなっていました。
今の南草津は湖岸に行くと冷たい風が、時としてきつく吹きぬけます。
でも琵琶湖の水鳥は元気に遊泳中です。水鳥に負けないように頑張ってレポートを続けます。
前回は2件の重文建築中心にレポートしましたが、今回は冷たい風が吹く中
近江八景の矢橋の帰帆として有名な矢橋港跡を訪ねてきました。
【矢橋港跡】
「もののふ(武士)のやばせの船は早くともいそがば廻れ勢田の長橋」と詠われました。
この歌が詠われた室町時代は船も粗末で、度々海難事故が起こり急ぐときほど勢田の
唐橋まわりの方が安全で早いですよと言う意味のことです。
普段なにげなしに使っている「いそがば廻れ」は矢橋が発祥の地だったわけです。
しかし江戸時代に入ると舟も大きくなって頑丈になりました。
「勢田に回れば三里の回りござれ矢橋の舟にのろう」と以前とは逆になり、
この矢橋道及び矢橋港はそれはそれは大賑わいとなったようです。
昭和57年~58年にかけて行われた、矢橋港跡発掘調査によりその全容が明らかになりました。
現在の石積突堤及び船着場は発掘調査後に築かれたものです。
文献によると信長は1578年の安土視察に、徳川家康に到っては関が原の戦い後の
上洛のおりを含めて3度この港から乗船した記録が残っています。
【近江八景】
近江八景は中国湖南省洞庭湖付近を画題とした、瀟湘(しょうしょう)八景を手本にした
ものだそうです。
その設立時期については諸説あるようで桃山から江戸初期に制定されたようで、
矢橋の帰帆はこの八景のうちの一つであります。
比良の暮雪
堅田の落雁
唐崎の夜雨
三井の晩鐘
粟津の晴嵐
瀬田の夕照
石山の秋月
矢橋の帰帆
皆さんこのうち何箇所行かれましたか、
といっても粟津とここの矢橋は今はその面影を見ることはできませんが。
<矢橋の帰帆>
そこでこの矢橋の帰帆とは、旅人及び物資を大津まで運んだ木造船が、
白い帆をかけて矢橋港に帰る情景を詠ったもので今では写真の浮世絵を見て
想像するしかないようです。
【銀杏の大木】
矢橋港跡近くに大きな銀杏の木があります。
説明書きによるとこの銀杏の木が大津から矢橋港に入港するおり船頭の目印
となっていたようです。
樹齢250年以上で当時この木の下では、旅人どうしでどんな会話がなされていたのでしょうか。
【芭蕉の句碑】
現在港跡は公園として利用されています。
公園の一角に「菜の花や みな出はらひし 矢走舟」と詠われた芭蕉の句碑があります。
芭蕉が大津への舟に乗りにきた折に詠った句で、乗船の時は騒々しいかったが、
舟が出でしまうと菜の花のだけが風に揺れて、のどかな雰囲気を醸し出している風景を
詠ったものです。
【矢橋公園】
昨年末の忘年会で矢橋に住む友人と同席することになりました。
どちらからともなく南草津と矢橋港の話題となりました。友人が曰くには自分が小学生の頃は
今、公園になっているところ(写真のところです)は入江になっていて、夏ともなると
毎日泳いでいたらしいです。
このあたりは遠浅で子供が泳ぐのにはちょうどよかったとか。
私は思わずエッ!!、それっていつ頃の話し?。昭和35年頃はこの辺りは琵琶湖のようでした。
それに友人の話しを借りるなら、浮世絵にある風景はたかだか150年程の前の話しで、
三代前の御爺さんの時代のことやろうー。
想像も出来ない昔のことではないとの話しには思わず首を縦にふりました。
〈矢橋公園から遠く比叡山を望む〉
あらためて公園から比叡山を眺めて、たかだか150年前の矢橋の帰帆を思い浮かべました。
3回に分けて矢橋道を歩いてきました。
南草津は地域の歴史が多く残っており、散歩方々歩いてみると楽しみなところです。
次回は南草津から歩いて20分程にある南笠古墳群を尋ねてみるつもりです。
みなさんお正月はいかが過ごされましたか、滋賀湖南地方の天気はまずまずでした。
昨年開業したイオンモールは大賑わいで、初詣に行かれる方とイオンモールへの
買い物客で近江大橋は車の列でした。
元旦から2日にかけて比叡山は雪が降ったようで、山の中腹まで白くなっていました。
今の南草津は湖岸に行くと冷たい風が、時としてきつく吹きぬけます。
でも琵琶湖の水鳥は元気に遊泳中です。水鳥に負けないように頑張ってレポートを続けます。
前回は2件の重文建築中心にレポートしましたが、今回は冷たい風が吹く中
近江八景の矢橋の帰帆として有名な矢橋港跡を訪ねてきました。
【矢橋港跡】
「もののふ(武士)のやばせの船は早くともいそがば廻れ勢田の長橋」と詠われました。
この歌が詠われた室町時代は船も粗末で、度々海難事故が起こり急ぐときほど勢田の
唐橋まわりの方が安全で早いですよと言う意味のことです。
普段なにげなしに使っている「いそがば廻れ」は矢橋が発祥の地だったわけです。
しかし江戸時代に入ると舟も大きくなって頑丈になりました。
「勢田に回れば三里の回りござれ矢橋の舟にのろう」と以前とは逆になり、
この矢橋道及び矢橋港はそれはそれは大賑わいとなったようです。
昭和57年~58年にかけて行われた、矢橋港跡発掘調査によりその全容が明らかになりました。
現在の石積突堤及び船着場は発掘調査後に築かれたものです。
文献によると信長は1578年の安土視察に、徳川家康に到っては関が原の戦い後の
上洛のおりを含めて3度この港から乗船した記録が残っています。
【近江八景】
近江八景は中国湖南省洞庭湖付近を画題とした、瀟湘(しょうしょう)八景を手本にした
ものだそうです。
その設立時期については諸説あるようで桃山から江戸初期に制定されたようで、
矢橋の帰帆はこの八景のうちの一つであります。
比良の暮雪
堅田の落雁
唐崎の夜雨
三井の晩鐘
粟津の晴嵐
瀬田の夕照
石山の秋月
矢橋の帰帆
皆さんこのうち何箇所行かれましたか、
といっても粟津とここの矢橋は今はその面影を見ることはできませんが。
<矢橋の帰帆>
そこでこの矢橋の帰帆とは、旅人及び物資を大津まで運んだ木造船が、
白い帆をかけて矢橋港に帰る情景を詠ったもので今では写真の浮世絵を見て
想像するしかないようです。
【銀杏の大木】
矢橋港跡近くに大きな銀杏の木があります。
説明書きによるとこの銀杏の木が大津から矢橋港に入港するおり船頭の目印
となっていたようです。
樹齢250年以上で当時この木の下では、旅人どうしでどんな会話がなされていたのでしょうか。
【芭蕉の句碑】
現在港跡は公園として利用されています。
公園の一角に「菜の花や みな出はらひし 矢走舟」と詠われた芭蕉の句碑があります。
芭蕉が大津への舟に乗りにきた折に詠った句で、乗船の時は騒々しいかったが、
舟が出でしまうと菜の花のだけが風に揺れて、のどかな雰囲気を醸し出している風景を
詠ったものです。
【矢橋公園】
昨年末の忘年会で矢橋に住む友人と同席することになりました。
どちらからともなく南草津と矢橋港の話題となりました。友人が曰くには自分が小学生の頃は
今、公園になっているところ(写真のところです)は入江になっていて、夏ともなると
毎日泳いでいたらしいです。
このあたりは遠浅で子供が泳ぐのにはちょうどよかったとか。
私は思わずエッ!!、それっていつ頃の話し?。昭和35年頃はこの辺りは琵琶湖のようでした。
それに友人の話しを借りるなら、浮世絵にある風景はたかだか150年程の前の話しで、
三代前の御爺さんの時代のことやろうー。
想像も出来ない昔のことではないとの話しには思わず首を縦にふりました。
〈矢橋公園から遠く比叡山を望む〉
あらためて公園から比叡山を眺めて、たかだか150年前の矢橋の帰帆を思い浮かべました。
3回に分けて矢橋道を歩いてきました。
南草津は地域の歴史が多く残っており、散歩方々歩いてみると楽しみなところです。
次回は南草津から歩いて20分程にある南笠古墳群を尋ねてみるつもりです。
Posted by
青花
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11:34
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青花さん